電力王 松永安左衛門

桜が咲き出すと、花冷えというて冷ようなる。昨日がどうそれじゃったんじゃなかろうか、しょう冷やかった。明日は大分、温うなるらしい。
さて、今日は電力王といれた松永安左衛門についてちくと話してみようかのぉ。
松永安左衛門が若かりし頃、明治の末頃のことじゃあが、彼は福沢諭吉の養子である福沢桃介と一緒に福松商会という石炭商の会社を設立した。この会社が大いに儲けた。そこで松永は相場に手を出した。この相場も当たって、一時は、その当時の金で60万円の大金を手にすることができたそうじゃが、そうは問屋が卸さん。日露戦争後の暴落におうて、瞬く間に無一文になってしもうた。まさに天国から地獄とはこのことじゃ。
そこで松永は灘の住吉呉田の小さな家に移り住み、2年間の蟄居生活を送ることになる。この間に松永は何をしたかといえば、毎日、読書と座禅じゃ。そうして松永は己自身あるいは人生を見つめ続けたわけじゃ。そして松永はいままでは早く金儲けをして財界に身を立てることばかりを考えておったが、その間違いに気づき、人は他人の為、世の中の為に働かなければならないと悟ったわけじゃ。まあ、ここが普通の人間と違うところじゃろうのぉ。
そしてまた、福沢桃介と一緒に明治42年のことじゃ、福博電気軌道株式会社を設立、今度は社名に松永の松の字がはいっておらん。ここにも松永の人間としての成長のあとが見える。その2年後には福博電気軌道、博多電灯、九州電気を合併して九州電灯鉄道株式会社を設立することになるわけじゃ。こうして九州の公共事業を手中におさめていったということじゃあが、これでおさまらないのが松永の世のため人のためを根底にした野望。電力は公共的なものということで一本化すべきだという哲学から東京電灯を傘下におさめることを画策し、それに成功し、日本の電力界の統一を成し遂げる。
わしが言いたいのは松永安左衛門が電力王になれたのは若かりし頃に事業に失敗し、2年間の蟄居生活で人間は己を空しゅうし、世のため人の為に働かなければならないということを悟ったということじゃ。
悟ったといっても、それを実行するのは至難の業じゃ。人間、日々修行ということじゃろうかのぉ。
まあ、今日はこれまでじゃ。